西村賢太 苦役列車
言葉の力というのは如何様にも転ぶので、例えば心の角度が傾いている場合に、その角度に鋭利に入ってくる言葉を畳み掛けられると、心は乗っ取られ、そちらに持って行かれてしまう。それを小説体験として、愉しんでいる余裕もなんだかこのオフィスとの行き来の乾いた人生には無い。
例えば、社内ニートで夕刻にひとりオフィスを抜けだして、誰もいない寮に帰る。
自由という時間を使いこなせる、伴侶もいなけれければ、自ら仕掛けたり、動くこともない。
暇になった分の隙間がぽっかりと開いた心で、ひとり卓を囲み、ビジネスホテルのような一室でポッドからお湯を注ぎ、カップ麺を啜り、苦役列車のページを捲る。
本当に沼のような気分になる、自分には主人公程の攻撃性は持たずとも、殆ど俺。そして言葉の密度、ユーモアや精神的な余りというものを排除された文面。
コチコチのそれこそ冷凍されたイカのような、僻みと劣等感と敗北的連鎖を密に詰め込んだ人生のブロック片。このブロック片のような生臭い匂いのする、明日からのまた負け癖のついた人生をループを否応なく繰り返させられるわけであろう。
心を奪われ、ハンドリングのできなくなった自分をよくある男のやり口で強制終了。
寝て起きて、二度目の読書でようやく、ぽつりぽつりと自分でも通れる石場を行間に見つけて、それらの飛び石を辿って自分なりの操縦をできるようになる。
あまり、久しく遠ざかっていた、痛い、実のある事?
あと、貫多⇔日下部の関係性がお互い見下し見下されている点で太宰治的であった。