気配りがいい塩梅でできるといいんだろうな。
また、はてなブクマの上位にのっている人の上にのっかって書いてしまい
こそ泥感ありますが、、、丁度考えていた事に似ていたので。
「気が利かない、気配りができない人」を悪とする
気が利く気が利かないって結構面白いテーマだと思っています。
テーマは2点
①気を利かせすぎる神経疲れは避けたい
②やっぱ気持ちよく働ける水を運ぶ人間として気を利かせていこう
① 気を利かせすぎると神経は疲れる
気を利かせすぎるというのは、何を持って気を利かせているといえるのかという
所で、友人のブログ(※)ですごく共感できた、積極的マナーの消極的マナー、おそらく前者をうまくできて、後者もやりすぎないってのがいいところだと思っている。※http://rlee1984.hatenablog.com/entry/2013/12/11/070807
コンビニで異常なへりくだりを見せる店員さんを見るとすこしきつい。このマナーは少しイイ方はキツイが社会病理的な部分を感じてしまう。
②やっぱ気持ちよく働ける水を運ぶ人間として気を利かせていこう
ただ上記のブログのブコメで言及されているように、マナーをある程度みんなが守らないと「万人の万人に対する闘争?」状態になってしまうと考える。つまり、すべてに対して調整コストが掛かるという状態になってしまう。
座っている場所が悪いのは「席をずらして頂けますか」と言えばいいではないかという話もあるが、そういう席をずらさずに座っている人って、あんま気にしない人だったりする訳です。つまり、言って素直に聞く人だったら最初からそんなことはしていない可能性が高い。
やっぱ、最低限の気配りはしたいところ。気を配りすぎるとやっぱ疲れてしまうし、その見え方もやっぱ能力だと思うので、気配りのできるのも能力で見えない人に、見える人と同等の事を期待するのは現実的ではないのかなと思う一方、やはり、みんながお互いを尊重して、できれば、気配りのパス交換がうまく決まる社会をできるだけ目指すという方向性でもいいのではないかと思う。
③ラスト:最後に、、見てている部分が狭い人を放っておかない社会を目指す仕掛け
気配りができるというのは、周りが見えていて、資料がわかりやすいというような結果にも繋がりやすい。逆に気配りができないと、資料がとてもわかりにくかったりしてしまう。自分も、そして多くの会社が悩んでいたり、そこをうまく出来る人が重宝されたりする部分でもあると思う。
そこに乗れない人にダメだ、それはできていないと言うつもりはない、でも見えていない人に指摘してあげるという機会やそのベネフィットに言及する場が少ないのは少し問題ではないかと考えていた時期もある。「いってもダメ」っていう人にどうアプローチするのだろうか問題。